初恋
(後編)
今日は夢にまで出てきた。
ああ、本当に何で名前を聞いておかなかったんだろ。
あと、どこの庁の所属かも聞いておけばよかった。
そうしたら後でお礼を言いに来ました、ってもう一度会いにいけたのに。
クルドが考え込んでいると、急にぐらぐらと揺さぶられた。
「……おい。クルドってば」
クルドは自分を揺さぶってる友達の顔を見上げた。アルは大教会に同期として入った貴重な平民仲間だ。アルとクルド以外は今年入った者はみんな貴族だ。そんな中でやっぱりちょっと浮いている感じの二人は、浮いた感じの者同士必然的に仲良くなった。
「……何?アル」
「何、じゃないよ。さっきからずっと呼んでるのに丸無視かよ。なんかおまえ、このところポーッとしすぎじゃないか?」
「そ、そうかな?」
「うん。すごくぼーっとしてる。しっかりしろよな。まだおまえ、配属も決まってないんだろ?ほうけてる場合じゃないじゃん」
「ああ……うん。そうだよね」
「もう行きたいとこぐらいはさすがに決まってるんだろ?俺は今日、『黒の宮』に挨拶に行ってきた。黒魔術師だからなー、俺。ホントは今一番話題の白の宮がいいんだけどさ。おまえ、知ってるか?3日前に新しく白の神官長に就任された方の噂。来週の式典では俺たち見習いも会えるみたいだぜ。なんでも俺たちとあんまり変わらないぐらいの年の……って、おい。クルド?」
「ん〜?」
「ん〜〜〜っじゃないっての。ぼやぼやしてると、ホントに行く所なくなっちゃうぞ。そうじゃなくたって平民出身者には風当たりが厳しいんだからさ。所属が決まらなかった奴は、せっかく大教会に入っても結局雑用ばっかりおしつけられて、結局やめちゃうって話だぜ。おまえだってそれは嫌だろ?ちゃんといろんな庁にアピールしにあいさつ回りして採用してもらえるように……って聞いてんのかよ!」
「えー……うん。なんだっけ?」
「はーーっ。駄目だ、こりゃ。なんだよ。なんかあったのか?」
「……うーん。あったといえばあったような、なかったといえばなかったような」
クルドは言葉を濁した。
あんな無理なごまかし方をしたのだから、あの少女は泣いていたことは知られたくないのだろうし。それにあの少女と出会ったことを話せば、アルに根掘り葉掘り聞かれるに決まってる。クルドはあの綺麗な不思議な少女との出会いは自分だけの秘密にしておきたい気がした。
「なんだよ、それ」
「……」
「まあ、いいけどさ……。でも明日こそ、ちゃんとあちこち挨拶にいっとけよ」
「……う〜ん」
「……はぁ。大丈夫かね、こいつ」
こつんとアルがクルドの頭を小突く。
小突かれてもまだクルドは、「うーん」とうなっていた。
***
クルドは大きなため息をついた。昨日アルに言われたとおり、一応あちこち挨拶回りはした。でも、いまひとつ気合が入ってないのが自分でもわかる。心ここにあらずというか。気づけばあの少女のことばかりを思い出している。こんなのは初めてだ。
「はーーっ。まずいよね、こんなんじゃ。アルの言ってた通り、ホントに行くところ無くなっちゃうよ」
呟き、ぼんやりと大教会の廊下を歩いていた時だった。
ぼんやりしていたクルドもいけなかった。
でも歩いてきたでっぷりした老人の方は、もっといけなかったのだ。自分の抱える大きな箱に入った貢物らしい高価な品々に見蕩れて、廊下の真ん中をよろよろとしながら歩いて、前を見ていなかったのだから。
そして不運なことに老人は箱の重さによろめき、ぼんやりとしていたクルドの手が老人の持っていたその箱にぶつかった。
ガラガラ、ガシャン。
箱いっぱいに入っていた高価な品々は箱からこぼれ、大きな音を立てて床に転がった。
さらにまずいことに、そのうちのひとつ……大理石で彫られた優美な天使の置物は真っ二つに割れた。
クルドは大慌てで振り返った。
「あ……ご、ごめんなさい!」
「何をする!この大馬鹿者!!」
でっぷりと太った老人は大声で怒鳴った。
老人の後につき従っていた3人の神官が慌てて落ちた品々を拾い上げ、クルドに厳しい眼差しを向ける。
「自分が何をしたかわかっているのか、おまえは?」
「よりにもよって異端審問長トラン様に体当たりを食らわせ、高価なお品を壊すとは……いったいどういうつもりだ」
「い、異端審問長トラン様?この太……ふくよかなお方が?」
見れば確かに、老人の胸には金の十字架が下げられている。埋められている宝石はサファイア。異端審問庁の権威の象徴だ。
「そうだ。このお方が異端審問庁を統括されるトラン様だ。おまえは自分の属する大教会の、五使徒たられるお方の顔も知らぬのか」
「す、すみません。入ったばかりの見習いなんです。そ、それに体当たりだなんて……ただちょっとトラン様がよろめかれたから、手が当たっただけで……」
「五使徒の顔も知らぬ上、さらにトラン様のせいにして見苦しく言い訳か。おまえを大教会に推薦した者の顔が見たいわ」
「この壊れた品は大変貴重なもの。いったいどう責任を取るつもりだ。見習い風情が」
口々に非難されて、クルドは小さくなった。大教会の広い廊下での騒ぎ。通りかかった他の者は足を止め、ある者は面白そうに、ある者は気の毒そうに、この騒ぎを遠巻きに見ている。だが、誰も口を挟もうとはしない。
クルドは泣きたい気持ちになった。
「ご、ごめんなさい。申し訳ありませんでした」
ペコリと頭を下げる。老人が値踏みするようにクルドを見た。
「おまえの名は?」
「ク、クルド・マーカスと申します」
「ふん。やはり平民か。平民出は使えないと相場が決まっておる。……おまえはまだ見習いとのことじゃったな。今年入った者か?」
「は、はい」
「所属はどこじゃ?」
「まだ決まっておりません」
「そうか。ではちょうどよいな。所属が決まっておらぬなら、この大教会からいなくなっても困る者は誰もおらぬということじゃ」
クルドは蒼褪めた。
「ま、待ってください。僕は……」
「どうせそのようにそそっかしいのでは、必要に思う庁もなかろう。分不相応なことはさっさと見切りをつけさせて、田舎に返してやるのが慈悲というもの。のう、おまえ達」
お付の3人の神官がうなづく。
「さすがはトラン様。慈悲深くていらっしゃいます。さっそく人事院にその旨伝えてまいりましょう」
クルドは慌てた。
クルドだって苦労して、遊びたいのを随分我慢して、いっぱい勉強して、それでやっと大教会に入ったのだ。家は裕福な商家で大教会にも色々なつてがあったけれど、それでも見習いとしてだって大教会に平民出身者が入るのは大変名誉で、滅多にないことなのだ。
家族は……とくにお母さんは大喜びしてくれた。その期待を裏切って、まだ入ったばかりなのに、何もしないうちに大教会を追い出されるだなんて。
「待ってください!僕はこの大教会に居たいんです!まだ何もしていないのに、大教会を出るだなんて……そんなっ……」
「トラン様にそれだけの無礼を働いたのだ。仕方あるまい」
「……ト、トラン様、どうか考え直していただけませんか。僕はまだここにいたいんです!」
クルドは必死に言い募った。
トランが冷めた目でクルドを見て、底意地が悪そうに笑った。
「ではちゃんと謝罪をしてもらおうか。ちゃんと謝れるぐらいの見所があるなら……そうじゃな。必要とされないおまえでも異端審問庁の雑用係として置いてやるように、考え直してみないこともないぞ」
この老人の統括する異端審問庁の雑用係……どんな扱いをされるかは目に見えている。正直全く嬉しくない。でも、追い出されるよりはましだろう。期待してくれた皆のことを思うなら、追い出されるわけにはいかなかった。
だけど……どういうことなのだろう?謝罪ならさっきから何度もしているのに。
「ええと……あの……謝罪ならさっきから……」
「馬鹿者!!」
いきなりトランに大声で怒鳴られてクルドは萎縮した。
「……あんなものは謝罪したとは言えん。のう、皆」
「トラン様のおっしゃるとおりにございます」
「謝罪というのは、ちゃんと両手両足と額を床につけておこなうものだと思ったが。儂の勘違いだったかな」
「いいえ。全くもってその通りにございます。トラン様」
お付の神官たちは皆一様にうなづく。
求められていることを察してクルドは固まった。
この場で……この大勢が遠巻きに人だかりを作って見守っているこの廊下で、土下座をして謝れとトランは言っているのだ。向こうにだって、いやどちらかといえば、向こうの方に非があるのに。
クルドは唇を噛んだ。
でも、ここで土下座しなかったら、大教会を追い出される。そうしたらお母さんはどんな顔をするだろう。お母さんや家族や……応援してくれた家庭教師の先生や、人のいい地元の教会の司祭様を悲しませたくなかった。
「ちゃ……ちゃんと謝ったら、考え直していただけますか?」
「そうじゃな。雑用係として考えてみてやろう」
「……わ、わかりました……」
クルドが強張った顔で床に膝を折ろうとしたその時だった。
「――こんなところにいたのですか?探しましたよ、クルド」
何度も頭の中で思い出していた、聞き覚えのある綺麗な声がした。
クルドは即座に振り返った。
遠巻きにしていた人だかりが割れ、ほっそりとした人影が割れた人々の間から姿を現した。
美しい、青みがかった銀色の不思議な色合いの髪。そして同じ色の大きな澄んだ瞳。
少女はクルドを見てふわりと微笑んだ。やっぱりびっくりするほど綺麗で、そんな場合じゃないというのに、クルドは少し見蕩れた。
「……クルド。私に気を遣ってくれたのは嬉しいですが……いくらまだ公表していないとはいえ、はっきりと言わなければ駄目でしょう?貴方がはっきりと言わないから、トラン殿も貴方の居場所がないのではと、いらぬお気遣いをされているようです」
「……はい……?」
少女がやさしく諭すように言う。
言っている意味がさっぱりわからない。
クルドは瞬きをして少女を見た。
それになんだろう……なんか違和感が……。
少し考え、クルドは気づいた。
……そうだ!
今、この少女は「トラン殿」と言ったのだ。
五使徒の一人であるこの老人を。
五使徒を同格で呼ぶ者。
それはつまり――この大教会においては、同じ五使徒だけだ。
クルドは少女の首からさげられている、真珠の埋め込まれた金の十字架を見て目を瞠った。
一方トランは苦虫を噛み潰したような顔をして、突然の乱入者を見た。
「……これはこれは新しい白の神官長殿。儂は少々とりこんでおりますがな。何か御用ですかな?」
「なにやらいろいろとお気遣いいただいたようですね、トラン殿。……ですが、このクルドは白の神官長であるわたくし付きの神官として内定しております。田舎に返されることはもちろん、異端審問庁の雑用係にされるのも困るのですが」
「……シャーレン殿は神官長になる前から、ずっと側仕えの神官は要らぬと突っぱねておったと思ったが。それがやっと決まったと思ったら、高位神官どころか、入ったばかりのそそっかしい見習いを選ぶとは前代未聞じゃな。なったばかりの白の神官長殿は随分と変わった選択をなさる。そのような者を側仕えにして白の神官長の職を全うされるつもりとは……まあ子供の遊び相手は、子供がちょうどいいという話もどこかで聞いた気はしますがな。……しかし、儂のような老人からするとお若い女性らしく少し五使徒の役目を甘く見すぎなのではないのかと思わずにはおれませんな。……のう、おまえ達」
お付の神官たちが一斉にうなづく。
「儂の従者もこう申しておりますぞ。シャーレン殿」
「……お言葉ですが、わたくしは大教会で遊んでいる子供のつもりはありませんし……それに地位があり、長いこと大教会の風習に染まっていればよい、というものでもないでしょう。わたくしは間違ったことでさえ何でもわたくしに同意してくれる者を選んで、側に置きたいと思っているわけではありません」
シャーレンの返答に、トランの額に青筋が浮く。
「……儂がそうだと言いたいのですかな。シャーレン殿」
「……そうは申しておりません。それとも何かそのように思われるお心当たりがおありですか?トラン殿」
一歩もひかずに言い返されて、トランがギリと奥歯を噛み締めた。
あの――大きなゴミのせいで泣いていたのだと言い張った天然の、一見儚げな美少女が、意外にもこの怖い老人を相手に一歩も譲らずに渡り合う姿を、クルドは目をぱちくりさせながら見た。
「……ふん。まあ、シャーレン殿がこの間の抜けた見習いを白の宮に引き取ってくださるというなら、儂はいっこうに構いませんがな。雑用としても、とくに必要もありませんしな。……それにどんな間抜けであろうと、白の神官長が選んだ従者を勝手に田舎に返すわけにはいきませんからな」
「……そう言っていただけると助かります。……破損した品につきましては、後日わたくしが代わりの品をお届けいたしますゆえ、わたくしの従者にきましてはどうかご容赦くださいませ」
少女が答える。
トランは少女をちらり見た。
「ほう……白の神官長殿が代わりに弁償してくれますとな。そうしていただけるとこちらも助かりますがな」
言って、それからクルドに視線を戻す。
「……だが、謝ることとはまた話が別ですな。シャーレン殿の従者に決まっているからと言って、謝らぬくていいという話はなかろう。――いや、シャーレン殿付きの神官になるというのなら、余計にけじめはきちんとつけねばな。自らの不始末の謝罪ひとつできぬ者を従者としては、白の神官長の名折れ。さっき中断した謝罪は謝罪として、ちゃんとやってもらえるのであろうな」
沈黙して、クルドはトランを恐ろしげに見た。
「それとも、そっちもシャーレン殿が代わりにやってくださいますかな。この見習いの代わりに床に這いつくばって。儂はそれでもいっこうに構いませんがな。……おまえはシャーレン殿に代わりに謝って欲しいか?見習い」
トランはクルドとシャーレンを見比べて、意地悪く笑った。
あくまでクルドに土下座をしろと言いたいらしい。
クルドの握った拳が震えた。
さっきまでなら、やってもよかった。でも、今は――この少女の前でだけは、そんなみっともない真似は絶対にしたくなかった。
……けれど、クルドが意地を張れば、助けてくれようとした彼女にまで迷惑がかかるかもしれない。
「……」
クルドは唇を噛み締め、うつむいた。
ほんの少し逡巡し、それから覚悟を決め、顔を上げる。
やっぱり必死で庇ってくれているこの少女にこれ以上迷惑をかけるぐらいなら、クルドが土下座をした方がずっといい。
「……わかりました」
クルドが言って、膝を折ろうとすると――すっと、少女の手が横に伸び、それを遮った。
クルドを制すると、あろうことか、少女はいきなり床へと膝を折った。
「……えっ?」
クルドだけではなく、トランの目までが見開かれた。
少女はそのまま床に両手を揃えてつき、頭を下げた。
美しい長い青銀の髪が床へとつく。
「わたくしの従者が申し訳ありませんでした。代わって謝罪いたします。トラン殿」
一瞬にして静まり返った廊下に、澄んだ声が声が凛と響く。
ややあって、徐々にざわめきが広がった。
「……白の神官長に廊下で土下座をさせるなんて……いくらなんでも滅茶苦茶だ……」
「だいたいよろよろしながら歩いていたのは、トラン様の方だぞ」
「……難癖つけておいて、シャーレン様に代わりに謝れだなんて……」
「シャーレン様がおかわいそうだ……」
あちこちでトランを非難する言葉が囁かれる。
最初は面白半分に見ていた者まで、眉をひそめている。
「ぐっ……」
あたりの空気は完全にシャーレンの味方になっていた。
自分自身の放った言葉に追い詰められて、トランは歯軋りした。
「……これでお許しいただけますか。トラン殿」
まだ床に跪いままの少女がトランを見上げ尋ねる。
「……っ……まさか本当に代わりに土下座までするとは・・神官長としての威厳もあったものではありませんな。つくづく呆れますぞ、シャーレン殿。――皆、行くぞ」
言い捨てて、不利を悟ったトランは踵を返し、トランの従者達も慌てて後を追っていった。
それを見届けて、少女は立ち上がった。
ポンポンと軽く服をはたくと、クルドを見てにっこりと笑った。
「では、私たちも行きましょうか。……あ、ちゃんとついてきてくださいね。中も結構複雑で迷いやすいのです」
「え?……あ……はい」
何処について行くのよくわからなかったし、いろいろ聞きたいことがいっぱいあった。だが、とりあえずクルドはただうなづいた。話すにしても、ここでは話にくい。何しろ周りの人だかりは遠巻きにずっとこちらに視線を送っているのだから。
***
クルドは少女にくっついて、連れられるままに白の神官長の居室に入っていった。全て品のいい白の調度品でまとめられた大きな部屋。クルドとアルのいる、狭い上に共同の部屋とは全然異なる。
「ここが私の部屋です。今いるここは執務室で、執務はここで行います。そこのソファとテーブルは来客用。他に奥に資料室があります。隣は寝室で普段は廊下から入っていますけれど、一応こっちの部屋からもつながってます」
少女が部屋の中を見渡すクルドを振り返って、簡単に説明をする。
「あ、あの……貴方が白の神官長だったなんて知りませんでした。このまえは失礼しました。……ええと……それと……そのありがとうございました!!色々とすみませんでした!!」
クルドはペコリと頭を下げた。
謝ると少女はくすりと笑った。
「お礼はともかく謝る必要はないと思います。私の方こそ、驚かせてばかりでごめんなさい。でも、追い出されずにすんでよかったです。……実はトラン殿の額に青筋が浮いていて、だいぶ怖かったので、とても緊張しました。まだ心臓がドキドキしています」
少女は胸に手を当てて、ほうっと息をついた。
「……そうなんですか?でも、全然そんな風には見えませんでした」
クルドが言うと、少女は真顔でこくりとうなづいた。
「がんばりました」
……さっきは、床に跪いた姿すら気品があって、凛としていて、神聖な感じすらしたのに。
こうしてみると、年上なのにやっぱりどこか可愛らしい。
ぽーっと見蕩れるクルドに、少女は少し不思議そうに首をかしげ、それから何かに気づいたようにポンと両手を合わせた。
「そういえば自己紹介がまだでした。改めまして。私は大教会で白の神官長を努めているシャーレン・フォン・エル・ディエンタールといいます。といっても、白の神官長にはほんの数日前になったばかりなのですけれど。よろしくお願いしますね。クルド」
「ディエンタール家のシャーレン様……」
ディエンタール……習ったのことのある名前だ。確か魔術の名門の公爵家だ。つまり、この少女は大貴族ディエンタール公の娘で、なおかつ大教会の白の神官長ということになる。
その白の神官長に、自分の代わりに土下座をさせてしまったのだ――ということを改めて認識して、クルドは蒼褪めた。
「……本当に……僕なんかの為に、白の神官長のシャーレン様に……ど、土下座なんてさせてしまって……ごめんなさい!僕がさっさとすれば済んだ事なのに……っ」
クルドが酷く落ち込んで言うと、シャーレンは穏やかに首を振った。
「いいえ。……あれは私の意地ですから。だから貴方が気にすることはありません」
「……意地、ですか?」
「ええ。人だかりが出来ていたので、側にいた者をつかまえて聞いたのですけど、よろめいたのはトラン殿の方だとか。それなのに貴方の方が土下座をするなんて間違っています。でも、トラン殿は意地でも貴方に土下座をさせるつもりのようだったので……だから私も少しむきになりました。絶対に貴方にそんなことをさせたくなかったのです」
「……でもシャーレン様なんてもっと何も悪くないのに……」
シャーレンはくすりと笑った。
「そうでもないです。私はトラン殿に嘘をつきましたから。それについては謝っていないので、あれできっとおあいこです」
「嘘?」
「……貴方が私の側仕えの神官に内定していたと」
「あ!」
そうだった。すっかり忘れていたけど、あの場で少女は確かにそう言っていた。
「……で、でもあれは僕を庇ってくれる為の方便で……実際にそう決まったわけではないんですよね……もちろん……」
シャーレンは首を傾げた。
「何故ですか?あそこまで言って、これで貴方を私付きの神官にしなかったら、トラン殿に何を言われるかわかりません。貴方には私の側仕えになってもらわなければ困りますけれど」
「え……! ……ほ、本当に……僕を……!?」
夢のような話だ。
あんまりの急展開にクルドはこっそり自分の太ももをつねってみた。
とても痛い。痛くてよかった。クルドはほっとした。
そんなクルドの挙動不審な行動にシャーレンはまた首を傾げた。
「……ええと……その、ごめんなさい。そういえば貴方の希望を全く聞いてませんでした。もし、白の宮ではなくて、他の庁に行きたいというのならそちらに行けるように口利きをしますけれど。あ……異端審問庁以外なら、ですけれど。……トラン殿のことはなんとかごまかしますから、もし行きたいところがあるなら遠慮せずに言ってください」
クルドは大慌てでふるふると首を振った。
夢にまで見た不思議な綺麗な少女。もし、この可憐な白の神官長の側仕えになることができるなら、それ以上のことなんてあるわけがない。白の宮の、白の神官長付きの神官。それこそがクルドの一番行きたい場所だ。
「ち、違うんです!白の宮が……シャーレン様付きの神官がいいんです!……でも、シャーレン様の方は……本当に僕なんかでいいのかなって……。僕みたいな……なんか事故にあっちゃったみたいな行き当たりばったりな感じの見習いで……」
クルドの言葉にシャーレンは瞳を大きくし、それからふわりと笑った。
「いいえ。貴方だからいいのです」
「……え……」
「本当は……私付きの神官はずっといないままにしておこうと思っていました。だから大教会に入って一年ほどですが、先日白の神官長になるまでもずっと側仕えの神官は置きませんでした」
「……ど、どうしてですか?」
「五使徒付きの神官の多くは、五使徒を主としてしまっています。本来ならこの大教会に入った者の主人は、神だけのはずなのに。さっきのように――彼らは自分が付いた五使徒をひたすら持ち上げて気分よくすごさせることに腐心して、もう一方では五使徒の権力をかさにきて、いばりちらしているような状態なのです。自分の耳に心地いい言葉ばかりを聞いていては、正しい判断など下せなくなります。……だから、私には従者はいらないと」
シャーレンはそこでクルドをじーっと見た。
「……でも、貴方はそうはならない気がします。いばりちらしてるところが想像できませんし」
言って、にっこりと微笑む。
「だから、私がもし何か間違えたことをしていたら……貴方がそう思ったら、遠慮なく言ってください。そうしてくれると私も助かります」
「あんまり言われて嬉しくないこととかでも……ですか?」
「そうです。私たち大教会の者は、それが必要なことならば、見たくないものを見、知りたくないものを知り、その上で神の教えにそっているかを自らに問うべきなのです。人々は私たちを神の言葉を伝える者として、神のしもべとして崇め、信じてくれています。……だからこそ、その思いを裏切らぬよう、期待に答えられるよう、我々がまず我が身を正さなければ。本当に神の言葉を正しく伝え、実践しているのか。自分達に都合のいいように、捻じ曲げてはいないのか。それを常に自らに問わなければなりません。――そうでなければ私たちを信じて従ってくれる皆に、あまりにも失礼で申し訳が立たないと思うのです。……そう……でも……それ、なのに……」
言って、シャーレンは苦しげに目を伏せた。
その苦しげな横顔に、クルドはシャーレンが隠れるようにして泣いていたことを思い出した。何か関係があるのだろうか。今の話と。
凛とした態度であんなに気丈に恐ろしい異端審問長と渡り合える少女が、あんな風に隠れて弱々しく肩を震わせて泣いているだなんて。
「あ、あの……シャーレン様?」
クルドが尋ねるとシャーレンは首を振った。
「ああ……なんでもないのです。ごめんなさい、クルド」
シャーレンが無理に微笑んで言う。
クルドは胸が痛くなり、悲しくなった。
なんだかよくわからないけど、とにかく助けになりたいと思った。
今はまだ頼りなくて、何も相談してもらえないかもしれないけれど。
いつかもっとちゃんとこの人の役に立てるように。
今はまだクルドよりも、きっとこの少女の方が強いのだろうけれど。
いつかこの恩を返せるように。この人を支えられるように。
あんな所で、一人で泣かせたくはないから。
――きっと。いつか、必ず。
クルドはもう理解していた。これが初恋なのだと。
……誰か可愛い女の子を、好きかも知れないと思ったことは何度もあった。キスぐらいはしてみた。でも、こんな風に胸が痛くなるほど、苦しくなるほど、人を好きになったのなんて初めてだった。
ここは大教会の中。そして彼女は白の神官長。どちらも神に捧げた身だ。
だから、叶うはずもない思いだけれど。
でも、それならば、せめて。
「……あ、あのシャーレン様!僕、一生懸命頑張ります!!シャーレン様のお役に立てるように!」
クルドが言うと、シャーレンは嬉しそうにふわりと微笑んだ。
「……ありがとう、クルド。これからよろしくお願いしますね」
差し出された白い手に、クルドはおそるおそる手を差し出して握手を交わした。
握った細い指はクルドのものよりずっと華奢で、クルドの心臓は痛いぐらいドキドキし、そうしてクルドは『この人を守りたい』という思いをいっそう強くした。
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